富山県立八尾高等学校 野球部OB会

ブログ・お知らせ カテゴリー:青春ノ頁

青春ノ頁 その5

2023年4月30日 18:18


私と高校野球(5)  ―― 全員出場と勝つこと ――

 

八尾高校野球部 元監督 伊藤 敏幸

 
2020(令和2)年の「春のセンバツ」は新型コロナの影響で中止となりましたが、代替大会として8月に出場予定校による一試合ずつの、いわゆる「夏のセンバツ」が行われました。
 
その中で、大分明豊高校がベンチ入りメンバー20名全員が出場し、4-2で県立岐阜商業に勝利した試合がありました。トーナメントで優勝を争う大会ではなかったこと、泣いても笑ってもその試合かぎりであったこと、 またメンバーに力量の差があまりなかったということもあったかもしれませんが、采配を振るう監督にとって、全員に出場の機会を与えることと、チームを勝利に導くことの両立は理想であり、かつまた大変むずかしいことであります。
 
ある年の野球部の送別会で、3年生のある生徒がスピーチのなかで、「代打でも代走でも最後の夏の大会に出たかった」とポツリと言いました。その言葉がなぜかずっと耳に残ったわたしは、その後の夏の大会ではベンチ入りの3年生を「全員出場させること」と「勝つこと」の両方をできる限り目指しました。勝ち進んで何試合も できることであればいいのですが、そうでない場合、試合の流れからしてどうしても出場させてやれなかったり、出場させたことが結果として生徒たちに申し訳のない試合になったりしたこともありました。どうすべきであったか、今でもその試合の記憶がよみがえって考えることがあります。
 
しかし、これは部員数が少ないチームの悩みであって、多くの部員を抱え、特に3年生のベンチ入りメンバーに悩む指導者には、選手の出場云々以前に大きな苦悩を抱えてのことと思います。
 
「勝負事」であるとともに「教育の一環」でもある高校野球。人としての成長のために、生徒たちに、どんなことを、どのように経験・体験させるか、指導者にとって最も大きな課題であろうかと思います。
 

(令和 3年 6月 19日 記)

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青春ノ頁 その4

2022年8月25日 10:49


私と高校野球(4)  ―― 合宿練習の思い出 ――

  

八尾高校野球部 元監督 伊藤 敏幸

 
ドラマにクライマックス(山場)があるように、一年間の練習の中にも「山場」が必要であると考えていました。
それが「合宿練習」でした。就任当初は、夏大会直前に「チームの結束」ということを目的に数日間行っていましたが、数年後からは当時の高岡商業さんの合宿練習を参考に、5月末から6月上旬にかけての一週間、「個々の強化」、「これまでの自分を超えること」を目的に行うことにしました。
具体的には、5泊6日の合宿生活のなかで、朝6時半からの10キロタイムトライアル、放課後は個人ノック中心の練習、そして夜のミーティングと学習。もちろん普段どおりの授業と並行しての合宿練習です。
授業中に居眠りをしていたとの報告があれば、即刻、合宿所から出て行ってもらうと言ってありました。が、そのような報告を受けたことは一度もありませんでした。
先生方にわからないように、うまく寝ていたのかもしれませんが…。
 
朝のタイムトライアルにはわたしも走りました。若かったし、走ることには多少の自信もありました。
中継点まではどんなことがあってもトップでいることを常に心がけて走りました。そんな走りを見て、生徒たちは度肝を抜かれたことと思います。中継点を過ぎると疲れからということもありますが、いわば意識的にペースを落とし、どんどん追い抜かれることにしました。それがわたしの作戦でした。誰ががんばって追い抜いていくかチェックすることができたからです。
しかし、それでもわたしに追いつけない生徒もかなりいて、なかには「なんとか監督に勝たなければ」と思い、3年生の最終日にようやくわたしに勝ち、喜びを爆発させていた生徒もいました。
 
一方、放課後のグラウンドには独特の雰囲気がありました。個人ノックをする側もノックを受ける側も緊張感がみなぎっていました。
この練習の大切さを身をもって理解してくれているOBたちがノッカー役として、それも現役の生徒たちに失礼のないようにユニホームをしっかり着てかけつけてくれました。
内外野で数カ所に分かれてノックが始まります。一応ノルマは100本となっていますが、双方の気持ちと気持ちがぶつかり合ってそれだけでは終わりません。200本、300本と続きます。フラフラになりながらもボールを追いかける生徒、大声で気合いを入れるノッカー、グラウンドのあちこちで修羅場のような光景が展開されます。
これが毎日続くのです。それでも生徒たちはみな、個人ノックの苦しみを乗り越えました。
 
ノックを終えた者のなかには達成感からか、泣いている生徒もいました。まさに「これまでの自分」を乗り越えた「新たな自分」との出会い、そのような自分に「自信」と「誇り」をもち、「プライド(意気地)」を強くしていきました。
合宿練習によってチームが飛躍的に強くなったとは言えませんが、やってきたことに悔いを残すことなく、全員で夏の大会に突入していけたと思っています。
 

(令和 3年 6月 19日 記)

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青春ノ頁 その3

2022年4月16日 16:41


私と高校野球(3)  ―― 監督としての熱源 ――

  

八尾高校野球部 元監督 伊藤 敏幸

 
昭和54年という年は、私にとって、その後の人生の画期を為す年でした。4年間の非常勤講師時代を経て、ようやく新規採用正式教員としてスタートした年だったからです。
 
4月に桜井高校へ赴任した私は、その年の夏、甲子園出場という幸運に恵まれました。
桜井高校が春夏を通して初の甲子園出場を勝ち取ったのです。
私は当時、サッカー部の顧問をしていましたが、大阪で学生野球をしていたということもあって、校長からコーチとしてチームに帯同するように命じられました。
私にとっては願ってもない貴重な経験の場を与えられたのです。宿舎での生活、当地での練習等々、甲子園出場とはこういうものなのか、ということをいろいろと体験させてもらいました。
しかし、なんといってもテレビではなく甲子園球場で直に見る開会式の厳粛にして 晴れやかな光景に接してのあの感動は、その後の野球部監督としての熱源になったように思います。
 
平成2年の八尾高校夏の県大会ベスト4も印象深い思い出です。
富山東との激闘などを制して勝ち進んだ準決勝、甲子園まであと2つ。
今から思うと、無心で戦うというのも一つの戦い方であれば、強く甲子園を意識して戦うというのも戦い方であるとすれば、なぜもっと後者の戦い方をしなかったのか、という後悔の念が去来します。
 
それにしても、多くの生徒たちと出会い、共に汗を流した練習や試合を思い返すとき、そこには恵まれすぎるほどの時間が流れていたことに気づきます。
 

(令和 3年 12月 7日 記)

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青春ノ頁 その2

2020年6月13日 11:53


私と高校野球(2)  ―― ある試合の思い出 ――

 

八尾高校野球部 元監督 伊藤 敏幸

 
監督としての23年の間に、大会や練習試合を合わせて、およそ1500試合ほどしていると思いますが、その中でもやはり忘れられない試合というものはあるものです。

 

八尾高校から富山北部高校にかわってからも、春の関西遠征は続けていました。
兵庫県のK高とは毎年のように試合をさせてもらっていましたが、その年の異動で、わたしは転勤とともに高校野球から離れることになっていました。1試合目が終わり、昼食時の折りに相手校のY監督にそのことを伝え、これまでお世話になったことへのお礼を述べました。

 

そして始まった第2試合、わたしはK高のメンバー表を見て驚きました。
第1試合とまったく同じベストメンバーだったのです。部員は数多くいるし、兵庫県ではその時期、地区大会も始まっていて、そう無理はさせられない時期です。
Y監督の餞別代わりだったのです。短いイニングで選手は交代したと思いますが、K高の生徒たちも監督の思いを理解して戦ってくれていたように思います。
わたしは只々 Y監督の心づかいに感動するとともに、これまでの関西遠征でのいろいろな出来事を思い浮かべながら、グラウンドを後にしたことを思い出します。

 

練習試合にも、いや練習試合だからこそ、いろいろな思い出が詰まっています。

 

(令和 2年 5月 31日 記)

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青春ノ頁 その1

2020年4月14日 8:36


私と高校野球(1)  ―― 授業が迫ってくる ――

 

八尾高校野球部 元監督 伊藤 敏幸

 
わたしはよく夢を見ます。その夢の中に八尾高校がしばしば登場します。
教員生活33年間のうち14年、つまり教員生活のおよそ半分を八尾高校で過ごしたわけですから当然かもしれません。しかし、その夢の内容は決して愉快なものではなく、逆に苦い思いの夢が大半です。
「授業が時々刻々と迫ってくるのに、その授業の準備ができていない。どうしよう、どうしようともがいている」、だいたいそんな内容が多いです。

 

放課後は野球、帰宅すれば疲れて寝るだけ。これでは部員たちに不勉強を諭すことなどできません。
でもなんとか教員生活を続けることができたのは、生徒たちの寛容さと、わたしの〝いたならなさ”をカバーしてくれた生徒たちの気遣いがあってのことと思っています。

 

(令和 2年 4月 2日 記)

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